ティーケーピー社長河野貴輝氏ーー貸会議室を全国展開(トップの挑戦)

2011-02-25

日経産業新聞「トップの挑戦」に弊社社長の記事が掲載されました。

ディーラーで決断力養う

 人懐っこい丸顔から早口でビジネスのアイデアが飛び出す。貸会議室最大手のティーケーピー(TKP、東京・中央)社長の河野貴輝(38)は、100億円とも言われる貸会議室の市場を創出した。セミナーや試験会場などの利用が拡大。全国展開に加え、周辺サービスを拡充し、今年は海外展開に乗り出すなど勢いづいている。

 河野が起業の原点と振り返るのが、祖父との思い出だ。小学生のころ、夏休みや冬休みに祖父の家に行くのが楽しみで仕方がなかった。祖父は大分県別府市内で衣料品店やスポーツ用品店を営んでいた。あるとき祖父の店に行くと店舗の商品が少ない。「これからは通信販売の時代や。商品は見本だけでええ」。時代が早過ぎ、うまくはいかなかったが、商売人としての進取の気質に河野は衝撃を受けた。

 商売に関心を持った河野は祖父から見込まれ、商談について行ったり、店番を任されることも度々。勝手にくじを作って販売促進をしたり、客寄せに店のそばにトランポリンを設置したりと、商売の面白さを学んだ。「いつかは祖父のように会社を経営したい」。河野は幼心にそう思った。

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 大学時代は株式投資にどっぷりつかる。大学にはほとんど行かず、証券会社の店頭で過ごす毎日。当時はバブル経済が崩壊し、株価は下がる一方。大金を払って怪しい投資顧問会社に、どの銘柄が値上がりするか聞くなど、のめり込んだ。就職先は当時、目的別採用をしていた伊藤忠商事に入社し、為替証券部で為替ディーラーの道を歩む。

 時代はインターネットの普及期。かつての証券知識を生かして伊藤忠が取り組んでいたオンライン証券の立ち上げに携わり、起業の面白さを肌で感じた。上司がネット銀行の設立を計画していると聞いて伊藤忠を退社。イーバンク銀行(現楽天銀行)に入行した。

 そこで待ち受けていたのは苦労の連続。経営基盤はぜい弱で、取引先にネット銀行を活用したビジネスを提案し、資本提携でしのいだ。ネット企業から買収攻勢をかけられ、「いつ野生動物に襲われるか分からないジャングルを突き進む感じだった」と河野はいう。

 そんな時、大学時代の友人で同じ為替ディーラーだった友人が事故で30歳代で亡くなった。友人の亡きがらを目にし、こみ上げてくる無念さ。社会人になってから時代の変化と寄り添うように走り続けていたが、ふと止まって考えてみた。「自分の夢は会社を興すことではなかったか」。イーバンク銀行を退職し、起業することを決めた。

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 ビジネスの種を探す中、知人から聞いた1件の情報が貸会議室につながった。六本木ミッドタウン近くに取り壊しが決まった3階建てのビルがあり、2、3階は退去したが、1階のレストランが入居したまま。相場の3分の1の家賃でいいから借りてくれないかという内容。転貸すればもうかると思い、月額計20万円で賃借契約を結んだ。

 ビルの近くで工事をしていた建設業者が事務所として3階を25万円で借りてくれた。この時点で元手の回収だけでなく、利益も確保。借り手が見つからなかった2階は貸会議室として一人1時間100円でネットで広告を打つと、社内研修に使いたい企業の問い合わせが舞い込んだ。これが貸会議室の原型となった。

 貸会議室にすれば、ビルの稼働率は上がる。利用者は低価格で貸会議室を利用できる。初期投資が少ないので投資資金を早く回収できる。河野は「まさに『三方よし』のビジネス」と胸を張る。2005年にTKPを設立した。今では全国で565室を運営し、利用件数は約7万5000件にのぼる。

 貸会議室は参入障壁が低いが、人材研修や弁当の手配など周辺サービスを拡充し、付加価値を高めて他社と差別化している。リーマン・ショックから2年が過ぎて貸会議室の需要も戻り、事業拡大にアクセルを踏み込む。今春にはニューヨークと上海に貸会議室を広げるほか、宴会場運営や給与計算代行、オフィス用品レンタルなど新たな領域にも進出した。

 「事業とは、挑戦と撤退を決断することの連続」と河野はいう。ぎりぎりの売買を決断した為替ディーラーも会社経営も同じこと。貸会議室にも固執せず、時代に求められる事業を追求したいと話す。河野の挑戦は始まったばかりだ。=敬称略
(倉本吾郎)

 かわの・たかてる 1996年慶応義塾大商卒、伊藤忠商事入社。2000年にイーバンク銀行(現楽天銀行)入行。05年にティーケーピーを設立し、社長就任。大分県出身。38歳